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(〜1980年8月) |
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1)フェアレディ2000(SR311) 本当はダットサンフェアレディ2000(SR311)がほしかったのです。 東京や神奈川の中古車ショップを探したり自動車雑誌の「売りたし・買いたし」に目をとおしたり勤務先で友人に声をかけたりしましたが、満足できるSR311を見つけることができませんでした。 結局SR311をあきらめ、伊豆の下田で見つけたMGBを1980年8月に入手しました。 3連ワイパーとラバーバンパーが特徴の1974年式の北米仕様車で、アメリカからの並行輸入車でした。 |
(2005年 ジャパンヒストリックカーツアー参加車両) |
(1980年 箱根) |
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2)ダットサンスポーツ1500 日産自動車(株)の技術員だった父の案内で東京晴海の自動車ショーを見学するのが毎年恒例の家族行事でした。 そして忘れもしない1961年10月の自動車ショー。 展示された「参考出品車」ダットサンスポーツ1500を見た時の驚きはとても強烈でした。 1年後の1962年10月にはダットサンフェアレディ1500(SP310)として販売がはじまり、小学4年生の「ほしいものリスト」に自分で運転したい自動車の最有力候補として記録されました。 |
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| 自動車ショーの「参考出品車」が実際に市販される場合があり、ホンダスポーツ360/500の「参考出品車」に、夢を膨らませた記憶があります。 なかでも、まるで飛行機のようなスライド式キャノピーのトヨタの「参考出品車」は、とても印象的でした。 この車は、タルガトップのトヨタスポーツ800として実際に発売され「ほしいものリスト」に書き加えられました。 小学校から中学そして高校へと進学するにつれて「まず手はじめにトヨタスポーツ800、次はホンダスポーツ800、そして30才までにダットサンフェアレディ2000(SR311)、年をとったらオープンカーはつらいだろうからトヨタ2000GT。」という、とんでもない人生設計が完成するのです。 モーターバイクに傾倒していく多くの同級生とは異なる「4つ輪(ヨツワ)好き軟弱派」として高校を卒業しました。 |
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3)まず手はじめに、トヨタスポーツ800 大学に進学して普通免許を取得し雌伏2年、アルバイトにいそしんで自己資金を貯えトヨタスポーツ800(UP15)を入手したのは、1972年12月です。 |
(1972年 神奈川大学) |
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| 製造年は1965年でローギヤがノンシンクロの前進4段、フェンダー上のウインカーが白色レンズのいわゆる「前期型」です。 部分開通した中央高速談合坂SAでリアウインドウがアクリルの「前期型」に出会い30分ほど話し込んだことがあります。 私が入手したUP15のリアウインドウはガラスでしたが、アクリル製で軽量化している人もいると知って驚きました。 私の車にはガソリンを燃焼させるヒーターが装着されていました。 その人のUP15はそんなオプションは装着しておらず「ヒーターがないのですね。」と驚いたら、「冬は非常に寒い! しかし加速と燃費はよい。」と言われたのが印象に残っています。 自動車の構造とメンテナンス、故障と修理の実際を学んだ思い出の1台です。 |
テントや飯盒を積み込み ツーリングキャンプに出かけた伊豆半島 (1973年 黄金崎) |
オイル交換や腐食した排気管交換など メンテナンスの実際を学んだ車です (1973年 横浜 自宅前) |
ワインディングロードの走り方なども この車で学びました (1974年 湯河原) |
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息子がトヨタの車を入手したら日産自動車(株)に勤務する父がどんな思いをするか、まったくわかっていなかった20才の冬の出来事でした。
4)父、怒る 私がトヨタ製の自動車を入手したことを知った父は激怒しました。 あれほど怒った父を見たのは後にも先にもありません。 横浜港の山下公園で父は私にたずねました。 戦争中氷川丸が病院船だったのを知っているかと。 私は知らないとこたえました。 |
(2005年 横浜港 山下公園) |
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20才になりトヨタスポーツ800を入手するまで私は知らなかったのです。 召集を受け陸軍2等兵として太平洋戦争を戦った父は、フィリピンで負傷しマラリアを併発して、病院船「氷川丸」で日本に戻ったのです。 父いわく「氷川丸が最後の病院船だった。 島に残った部隊は全滅した。 負傷した2等兵が氷川丸に乗れるような状況ではなかったはずだが部隊長の配慮か、上官や諸先輩をさしおいて若い自分が内地に帰ってきた。」 連合軍のフィリピン侵攻は1944年9月中旬にはじまりました。 同年10月にはレイテ沖海戦で知られる「捷一号作戦」で日本海軍は大打撃を受けました。 1945年1月にはルソン島に連合軍が上陸、以降8月15日まで激しい戦闘が各地で行なわれました。 |
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「氷川丸に乗らなければ、たぶん生きて日本に帰ることはできなかった。 日本に帰らなければ、おまえは生まれていない。」と父。 自分ひとりの力量で、生きるのではない。 他の人たちのおかげで、生きているのだ。 それを忘れてはいけない。 氷川丸とトヨタスポーツ800。 比較にならないと思いましたが、父が言いたいのは別のことだったのでしょう。 戦時中のことを父は口にしません。 日本は負ける。 自分たちは、たぶん死ぬ。 だが若いおまえは生きて日本に帰れ、そしてあたらしい日本をつくりあげてくれ。 島に残る人たちの、こんな思いに背中を押されて父は氷川丸に乗ったのだろうと、私は今も考えています。 しかし本当の出来事は、父の胸の内です。 思うに、生きて戻ったこういった人たちの必死のはたらきで、今の日本があるのです。 5)ならば息子は日産自動車(株)に就職し、SR311に乗る 今にして思えば、どうしようもない親不孝者でした。 「親の心、子知らず」とは、よくぞ言ったものです。 教職の資格を取得したのですが進路を変更し、私はトヨタスポーツ800を手放し日産自動車(株)の採用試験を受験して、かわりに日産サニークーペ(KB10)を入手しました。 1974年10月の出来事です。 そして1975年4月に日産自動車(株)に入社しました。 |
後ろは日産チェリークーペX1R (1975年 北里大学ラリー) |
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第4次中東戦争に端を発する1973年のオイルショック。 さらに無視できないほど都市部の大気汚染は悪化していました。 1976年4月以降に登録される新車には「51年度排気ガス対策」への適合が義務化され、公表される動力性能は各メーカーの技術陣必死の開発努力にもかかわらず、私にとっては、悪い冗談としか思えないほど低い数値でした。 最高出力やトルク、総重量で計算したパワーウエイトレシオを前に「新車でスポーツカーが買える時代は過ぎ去った。」と喫茶店で友人と顔を見合わせ、「選択肢は未対策の中古車か。」とため息をついたものです。 1975年12月、触媒付きでないスポーツタイプの新車に乗る最後のチャンス。 1400ccでSUツインキャブレターを装備した日産サニーエクセレントGX(PB210)を入手しました。 KB10は下取りに。 |
(1976年 東京都立大ラリー) |
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6)スポーツカー冬の時代 SR311が見つからない このままの消費を続けると、石油は15〜20年で枯渇すると報道するマスコミもあり、今から思えば喜劇のようですが「ガソリンで走る2人乗りオープンスポーツカーを新車で入手することは不可能。 中古車しかない。」とも考えたのです。 もっともホンダS2000、マツダロードスター、BMW Z3、ポルシェボクスターほかの新車を入手することもなく、今もMGBを保有しているのですから、見当違いだったとは言えませんね。 |
(1977年 東京都立大ラリー) |
(1977年 東京電通大ラリー) |
(1978年 東京農大新春ラリー) |
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サニーエクセレント1400GX(PB210)に乗りながらSR311を入手する日を夢見ていましたが、当時の社会環境は「スポーツカーは社会悪」。 生産中止のスポーツカーをレストアして販売するショップは少なく、程度のよいSR311を見つけるのはとても困難でした。 満足できるSR311に巡りあえないまま数年がたち、私は対象を広げることにしました。
7)かわりの候補はMGB SR311の好敵手 SR311を夢見ていた私は、MGBを意識しはじめました。 MGBは1962年9月に発表、同時に販売が開始されました。 そして日産自動車(株)がダットサンフェアレディ1500(SP310)の販売を開始したのは1962年10月でした。 小学生だった私は「同じ年に生まれた好敵手」といったイメージをMGBにもっていました。 もちろんこれは小学生の私が勝手に考えていたことであり、当時の英国の自動車メーカーが日本車をライバル視することはなかったと思います。 |
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日産自動車(株)は英国オースチン社から技術援助を受け1953年から1960年の間サマーセットサルーンA40やケンブリッジA50のライセンス生産を行ないました。 オースチンケンブリッジA50を完全に国産化したのは、日産自動車30年史によれば1956年、つまりMGBやダットサンフェアレディ1500発売の6年前です。 どちらの技術力が高いかは明らかであり、ダットサンフェアレディ1500をMGBの「好敵手」や「競争相手」とする認識は英国メーカーにはなかったはずです。 好意的にとらえた場合「教え子が懸命につくりあげた習作」といったところでしょうか。
8)ダットサン240Zに敗北したMGB 小学生のころは「MGBはSR311の好敵手」というのが私の認識でしたが、社会人になるころには「北米市場でS30に負けたMGB」というイメージも、追加されていました。 1969年に日産自動車(株)は、クーペタイプのフェアレディZ(S30)を発売しました。 輸出仕様のダットサン240Z(S30)は、好評をもって市場に受け入れられましたが、同時に北米市場でMGBの販売に、非常に大きな打撃を与えました。 |
(2005年 スピリッツオブザラリー展示車両) |
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1970年代も後半になると北米市場での販売台数の差は挽回不可能と思われるほどになりました。 1979年9月にブリティッシュレイランド社は、1年後の1980年10月に生産拠点のアビンドン工場を閉鎖し、MGBの生産を中止すると発表しました。 私がSR311の代替候補として、MGBを考えはじめた時点で、その生産終了はすでに決定され、下田でMGBを入手した2ヶ月後に、本国の工場は閉鎖されたのでした。 日産自動車(株)が師と仰いだオースチン。 その血筋をひくブリティッシュレイランド社が製造したMGB。 輝かしい栄光の日々は過ぎ去り、かつての「教え子」が製造したダットサン240Zに、MGBは北米市場で敗北。 子供の頃からあこがれたSR311をあきらめた私は、見果てぬ「夢」をかなえるために、MGBを入手しようとする。 国産車ではないので品質と部品供給が不安でしたが、私にためらいはありませんでした。 しかし、MGBの生い立ちとその終焉を考えると、日産自動車(株)に勤務する私の思いは複雑でした。 9)下田にて 8月中旬の夏期休暇、私は友人と西伊豆にキャンプに行きました。 そして、その帰り道の下田市内。 中古車ショップに1台のMGBが展示されていました。 沼津ナンバーながら車検は2年付き、タイヤはミシュランの8分山。 さっそく外観、内装、エンジンルーム、トランクルームを確認し試乗をお願いしたところ、ひととおり点検し準備をするので1時間ほど時間をほしいとのことでした。 時間調整を兼ねた昼食休憩、そして試乗開始。 エンジン、足回り、ブレーキ、クラッチ、トランスミッション、デフいずれも満足できる状態でした。 中古車ショップに戻り「このMGB。 くっ、ください。」 自動車保管場所証明ほか名義変更の書類をそろえ8月末に友人と2人でMGBを引き取りました。 「この車、限界性能は低いよ。スポーツカーではなくオープンカーだね。 コーナリング性能を過信すると事故をおこすから、注意したほうがいいね。 でも、挙動はすなおだから大丈夫かな。 低速のトルクはあるし吹き上がりも軽いけど、思うようには加速しない。」と友人。 「デフのギヤ比を高速用にセットしたのかなぁ。 4気筒のOHVで1800ccあるけどシングルキャブでは苦しいね。 せめてOHCで電子燃料噴射は必要でしょう。 だからアメリカでS30に負けたのかなぁ。」と私。 言いたい放題を言いながら横浜まで帰ったのでした。 |
(1980年 箱根) |
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10)父、多くを語らず 「おまえも社会人だから、もうなにも言わん。 だが給料は、日産自動車から出ていることを忘れるな。」と父。 SR311をあきらめた私は、サニーエクセレント1400GX(PB210)を次弟に譲り、こうしてMGBに乗りはじめたのです。 でもこのMGBに25年間乗り続けるとは思いもしませんでした。 |