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(1980年9月〜1989年9月) |
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11)零戦 零式艦上戦闘機は日華事変と太平洋戦争で使われた飛行機であり、敵味方多くの人命を左右した兵器です。 不謹慎な比較ですが正直なところ、MGBと零戦はその誕生から終焉まで共通点があると、私は思います。 |
(発動機 栄12型 離昇出力 940馬力) |
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| 軽量、軽装甲、小型の機体に1000馬力に満たないエンジンを搭載した零戦は、緒戦で圧倒的な強さを示しました。 アメリカは不利な戦況を立て直すべく大型の機体、重武装、重装甲、高出力エンジンの戦闘機を開発しやがてその性能は零戦を凌駕します。 海軍のヘルキャット(F6F)や陸軍のサンダーボルト(P47D)は2000馬力級のエンジンを搭載していたのです。 |
(発動機 P&W R2800 出力 2000馬力) |
(発動機 P&W R2800−58 出力 2300馬力) |
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ダットサンフェアレディ1500(SP310)と同じ1962年に発売されたMGBは、世界の市場で高い評価を受けます。 1980年10月に生産が終了した時点で、MGBの累計生産台数は51万台を超え、2人乗りオープンカー生産の世界記録を樹立したことからも、人気の高さがうかがえます。 3500ccのV8エンジンが搭載された車種もありましたが、MGBの主力エンジンは1800cc直列4気筒OHCであり、1962年から1980年まで生産が継続されました。 他方1500ccでスタートしたフェアレディは直列4気筒の1600、2000ccと徐々に高出力エンジンが与えられ、クーペタイプになった1969年のフェアレディZ(S30)以降は直列6気筒の2000、2400、2600ccの大排気量エンジンを搭載。 私がMGBを入手した1980年に日本国内で販売されていたフェアレディZ(S130)のエンジンは2000ccと2800cc、しかも電子燃料噴射になっていたのです。 |
直列6気筒エンジンを搭載 1969年に発売されたS30 北米市場で圧倒的な支持を受けました |
S130は2000ccと2800ccの 直列6気筒エンジンを搭載 |
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もちろんブリティッシュレイランド社が手をこまねいていたわけではなく1800ccエンジンでスタートしたMGBにも、クーペタイプの MGB GT、直列6気筒3000ccのMGCやV型8気筒3500ccのMGB GT V8が追加されていたのですが、北米市場で販売台数の差を挽回することはできなかったのです。 緒戦で圧倒的な強さを示しながらも、その後の改良やパイロットの健闘にもかかわらず、零戦は連合国の戦闘機に敗北しました。 ブリティッシュレイランド社や販売サービスに携わる多くの人々の努力もおよばす、MGBは1980年に生産中止となりました。 「フェアレディZに敗れ去った車」というイメージとともに、私はMGBに乗りはじめました。 |
まもなく「のぼりのぶたさん」と呼ばれることに・・・トホホ (1980年 箱根) |
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12)のぼりのぶたさん 箱根旧道 1980 本気で突進した場合ぶたさんが速く走ることを、私は知っています。 ですから速く走らないからといってMGBをぶたと呼ぶのは、ぶたさんに失礼です。 箱根旧道で先行するカローラクーペSL5に追いつけなかったMGBは「のぼりのぶたさん」と呼ばれました。 1980年9月、私は友人とMGBで伊豆箱根方面にドライブに出かけ、深夜の国道1号線旧道(通称七曲り)で1台の車に遭遇します。 テールランプとカーブに進入する際に見える斜め後ろのシルエットから見当をつけた車種はカローラのクーペ。 「この時間に、こんな場所を走っているのだから、」グレードは「当然、レビン!」。 先行するカローラクーペは、道路のストレート、カーブで見え隠れし次のコーナーが右カーブか左カーブか、教えてくれます。 ペースをあげてコーナーを縫うように追従し、車間距離を詰めようとしますが、近づいたと思うまもなく、それほど長くないストレートで離され、先行車のテールランプは、次のコーナーに消えていきます。 「どうした。 どうした。 あと少しで、追いつくぞ。」「おおっと、そうくるか。」「おぬし、なかなかできるな。」「ならばこれで、どうじゃ。」などといいながら必死に追いすがるのですが、甘酒茶屋近くのストレートで完全に引き離されてしまいました。 「さすがはレビン。 1800ccのMGBでは追いつかない。」 新道と合流する三叉路の信号待ちでカローラにやっと追いつきました。 オレンジ色のナトリウム灯のもと明らかになる残酷な真実。 「レレッ。 オーバーフェンダーがついてない!」 「アイヤーッ。 レビンじゃなかったのね。」 「SL5だ。」 |
(2005年 スピリッツオブザラリー展示車両) |
(1980年 箱根) |
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当時の私と友人にとってレビンと言えば「27レビン」です。 カローラクーペの車体に1600ccDOHCエンジン(2TG)を搭載し、そのままラリーやダートトライアルに出場できるほどハードなサスペンションやオーバーフェンダーがメーカー標準で装着され、おまけにソレックスまでついてくる林道の覇者「27レビン」と信じて疑わなかったのに。 トホホホホ。 ついてきたのはMGBと確認したSL5は、三叉路の信号が変わるとUターンして旧道を下っていきました。 湯本からまた登ってくるのでしょう。 すれ違う2台の間で交わされる目礼、そしてMGBの気まずい沈黙。 私たちは芦ノ湖へ向かい、MGBは湖畔の駐車場にうずくまってしまうのです。 「うぅぅっ。ラリー仕様のSL5に追いつかない・・。」 この夜からMGBは箱根でカローラに追いつくことができなかった車として知られるようになり「のぼりのぶたさん」と呼ばれたのです。 友人いわく「くだりなら速いのかもね。」 13)くだりのおおかみ 長尾峠 1980 長尾峠は御殿場と仙石原をむすぶ峠道で、乙女峠にトンネルができるまではこの長尾峠を越える道が国道138号線でした。 舗装ながら道幅はせまく、車道に覆い被さるように樹木が生い茂りブラインドになるコーナーがあるし場所によっては側溝があるので、コース取りに注意が必要となる峠道でした。 |
(1980年10月 道志) |
(1980年10月 長尾峠) |
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1980年11月、末弟とドライブにでた私は仙石原から御殿場に向かうべく長尾峠を走っていました。 トンネルをとおり芦ノ湖スカイラインと分岐し、御殿場へ下りはじめてしばらくすると、先行する車に追いつきました。 時刻は午前1時ごろ、相手は3ナンバーの2ドアハードトップです。
ゆっくり走っているのでストレートで追い抜こうとすると急加速して抜かせてくれません。 3、4回トライしてもどうしても抜かせてくれないので、左のタイトコーナーに並走したまま進入しクリッピングポイント直前で追い越しました。 ヘッドライトの照り返しがないので対向車はいないと考え、コーナーのふかさと続くストレートを知っていたから追い越したのですが、本当にひどいことをしました。 対向車があったら正面衝突です。 コーナーに入る前から抜けるまでMGBは対向車線を走りおまけにクリップポイント手前から後輪をスライドさせていたのですから。 恥ずべき行為であり許されるものではないと反省しています。 あろうことか、罪のないおとなしい2ドアハードトップに挑みかかった、このエピソードは、仲間内に知れわたり「のぼりのぶた くだりのおおかみ」と呼ばれたのです。 消すことのできない悪行であり、ほんとうに申し訳なかったと思っています。 14)封印 無謀ドライブ つばきライン 1981 後に結婚する女性と一緒にドライブに出かけて、「のぼりのぶた」は封印されました。1981年のことです。 つばきラインは湯河原市内と箱根大観山をつなぎます。 湯河原から登ると21番目コーナーの頂点に分離帯のような植え込みがありますがそれ以外は対向車線とセンターラインでわけられた片側1車線の舗装路です。 全長は計算ラリー用の距離計で13.24km(湯河原から登りの距離ですが、車とタイヤとコース取りに左右され数値は異なります)。 つばきラインと十国峠は指示速度走行の練習コースでした。 降雨量による通行規制表示の真下からスタートし大観山駐車場入り口までの間13分17秒がベストタイム(平均速度59.8km/h)でした。 MGBに乗り換えてからタイムは15分20秒を上まわることはありませんでしたので、速度はアベ51.8km/hです。 |
「女の髪はゾウをも繋ぐ」と友人たちは言いました (1980年 麦草峠) |
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未舗装の林道(神奈川のやびつ峠や白銀林道、千葉の嶺岡林道)でアベ25〜35km/h程度、1.5車線程度の舗装の山道でアベ35〜45km/hが当時私がエントリーしていた計算ラリーの水準ですので、センターラインが完備しているつばきラインで51.8km/hのアベは決して速くはないと、私は思いました。 しかし計算ラリーへの参加経験のない家内にしてみれば、よい子は寝ている深夜(正しくは早朝)にとんでもないスピードで山道を駆けのぼる危険きわまりない動物に思えたのでしょう。 大観山の駐車場に到着するや否や「無謀ドライバー」の烙印を私は背中におされ、アベ50km/hの運転は、封印されたのでした。 15)不思議な魅力 1981 1980年代にターボチャージャー付きスポーツカーが大人気となりました。 レスポンスにタイムラグがありましたが、小排気量エンジンを搭載した軽自動車や小型乗用車の動力性能は飛躍的に向上しました。 それに比べMGBのエンジン出力はいかにも非力であり最高出力と最大トルクを比較するとますます見劣りがするようになっていました。 ひところ影の薄かったスポーツカーが再び充分ともいえる動力性能を得て発売されるようになり、近い将来MGBを乗り換える時がくると私は考えました。 「まぁ乗って6年かな。」と。 しかしながら、この考えは間違っていました。 私はMGBに魅力を感じるようになったのです。 |
(1980年 宮が瀬) |
(1981年 宮が瀬) |
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| まず最初の魅力は、「運転していてこわくない」ことです。 運転の本当の恐ろしさを知っているのかと言われると返す言葉がありませんが、アクセルを踏み込むと猛然と加速する車にはそのスピードに恐怖を感じますし、ブレーキ性能が優れた車はその制動力を恐いと感じるのです。 段違いの性能をもつ車を運転した時は「この車の性能を100%ひきだす技量は、私にはない。」と思うのが常です。 ケータハムスーパーセブン、ベンツ、ポルシェ。 いずれもすばらしい車ですが魅力と同時に私は恐怖を感じました。 あまりの性能のすばらしさに「私の技量のおよばない領域があり、いつかそれを理由に事故をおこすのではないか。」と自分自身を恐れるのです。 ところがMGBの場合は、それは幻想だよと指摘されますが、「この車ならば私でも、100%その能力を引き出せる。」と思えるのです。 高出力のエンジンを積んではいないのだけれど。 |
(1981年 横浜) |
(1981年 横浜) |
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次の魅力は、ラバーバンパーを外したMGBを運転した時に感じました。 1981年にMGBのボディカラーを変えることにして、ペイントを剥離したボディの状態を見に整備工場に行きました。 「MGBのバンパーって、すごく重いねぇ。」と社長さんに言われ、持ち上げてみてびっくり。 「うわぁ。 おっ、重い。」 ボディの状態は7年物の並行輸入車にしては悪くなかったのでひと安心。 グリーンへの再塗装をお願いし塗料乾燥もそこそこに、バンパーを外して運転してみたのです。 少女漫画の「めがねをはずすと、とっても美人」という王道パターンのとおり、ラバーバンパーをはずしたMGBのフットワークはとても魅力的でした。 「これが1962年当時に大評判となったMGBの実力なのか。 知らなかった・・・。」 キャブをSUツインにしてラバーバンパーをはずせば、魔法がとけて真のMGBが覚醒する。 ムフフッ。 しかし封印された「のぼりのぶたさん」はおとなしく重いラバーバンパーを再装着し、魔法のベールにつつまれたMGBに乗りつづけたのです。 「いつか必ずクロームメッキのグリルとバンパーに・・・。」と夜空の星に願いながら。 この願いがかなうのは16年後です。 |
(1981年 野辺山高原) |
(2004年 新横浜駅 篠原口) |
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16)サマーツーリング 別所温泉 1982 箱根や伊豆の山道をぶぃぶぃ走りまわっていた「のぼりのぶた」は封印されたまま1982年5月に結婚しました。 そして夏休み休暇に私たちはツーリングに出かけました。 夏のツーリングは、出発と戻りを早朝や深夜にすると横浜の暑さをさけることでき、気温が高い9時から18時の間は海抜1500m級の高原を走るようにすると、快適です。 |
(1982年 白樺高原 女神湖) |
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この時も早朝に横浜を出発、5時半に甲府を通過し6時には国道141号を韮崎から清里に向かうというペースでした。 その後、八千穂村を経由して麦草峠を越えビーナスラインをとおり白樺高原から松本へ、順調にツーリングを続けました。 ところが、軽井沢に向かう途中、鹿湯温泉を過ぎたところでメカニカルトラブルが発生しました。 イグニッションキーは、キーオフ・ロックのポジション以外は抜けません。 しかしキーオン状態のままロックシリンダーがこわれ、イグニッションキーがそのまま抜けるようになったのです。 エンジンを、キーで停止させることもできず、スターターモーターを、キーで作動させることもできない状況でした。 エンジンをとめる場合は、ブレーキを踏んだ状態でトップギヤにシフトしてクラッチをつないで強制停止。 エンジンをかける場合は、惰性で坂を下りトップギヤにシフトしクラッチをつないで強制始動。 長時間駐車する時は、バッテリーのターミナルからケーブルをはずすという、手間のかかる事態となりました。 |
(1982年 鹿湯温泉付近) |
(1982年 別所温泉駅) |
(1982年 軽井沢) |
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予定を変更し別所温泉の温泉旅館組合で事情を説明し下り坂に面した旅館を紹介していただきました。 別所温泉駅前でも軽井沢でも駐車する際はかならず下り坂、長時間の駐車以外エンジンはアイドリングのまま、踏切横断中はエンジンがストールしないよう注意しながらのツーリングでした。 幸いエンジンストールすることもなく無事に自宅に戻ることができました。
16)紅葉ツーリング 日光 1982 残暑の9月が過ぎ10月になるとオープンカーにとって最適の季節がやってきます。 週末に日光と軽井沢にツーリングに出かけました。 暑さをさける必要はありませんが、首都圏の交通渋滞をさけるために、横浜を出発するのは早朝です。 第2京浜国道(国道1号線)で東京方面に向かい、新橋から昭和通りを道なりに走行し、上野駅前から日光街道(国道4号線)を、草加まで北上。 草加から川口にぬけて、東北自動車に入ります。 5時半に上野駅前を通過すれば渋滞は回避したと考えてもOKでした。 東北自動車を北上し、宇都宮から宇都宮日光道路に分岐し、日光市まで一気に走り抜け、10時には「東照宮」を見学していました。 |
(1982年 日光竜頭の滝) |
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| 秋の高原ドライブの楽しみは、澄んだ空気と紅葉と清流です。 連続する急カーブと急な傾斜で有名な「いろは坂」(国道120号線)をのぼり、中禅寺湖畔や竜頭の滝を見学しながら、戦場ヶ原に向かいます。 抜けるような青空の風景はもちろん魅力ですが、霧で濡れた笹と白樺と紅葉の組み合わせも、風情があってよいものです。 道路端の落ち葉はしっとり濡れて、あたりの空気は清浄です。 戦場ヶ原から日光湯元温泉に向かい、湖畔のホテルで一泊しました。 |
(1982年 戦場ヶ原) |
(1982年 竜頭の滝付近) |
(1982年 白糸の滝付近) |
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翌日は国道120号線で金精峠を越え丸沼、白根温泉、片品村、椎坂峠を越え白沢町から沼田に至るルートをドライブしました。 その後は国道145号線で草津温泉、国道146号線で北軽井沢から浅間山麓をとおり旧軽井沢をめざしました。 途中、浅間牧場や白糸の滝に立ち寄り旧軽井沢へ下りました。 そして佐久から国道141号線で清里を経由し横浜に戻りました。
18)スノードライブ 野辺山 1983 & 車山 1987 MGBが雪道で使いものになるか否か興味がありました。 車高は充分か、走行安定性は満足できるか、登攀は、制動は、エンジンの再始動はどうか。 ワイパーは? ヒーターは? 心配は尽きませんが「案ずるより産むがやすし」。 タイヤチェーンを装着すれば多少の積雪は大丈夫であることがわかりました。 |
(1983年 野辺山高原) |
(1983年 野辺山高原) |
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1983年2月に野辺山にドライブに出かけました。 ねらいは野辺山(五光牧場)のハンバーグランチと清里(清泉寮)のアイスクリームでしたが、冬季ゆえ営業していませんでした。 残念。 天気はよかったものの野辺山高原の道路コンディションは「雪」でした。 せっかく来たからと周辺を走りまわり、雪遊びをして帰りました。 タイヤはミシュランの165SR14。 タイヤチェーンは装着しませんでしたが、MGBの操縦安定性は満足できるレベルでした。 スリップしてもコントロールは容易でした。 本格的なチャレンジは1987年2月でした。 1983年に生まれた長男と1985年生まれの次男をつれて4人で車山スキー場に行ったのです。 MGBの積雪に対する性能はFRの2WDセダンと比べても遜色はなく、家族全員で2拍3日の旅行を楽しみました。 2人乗りMGBに4人乗るのは乗車定員違反であり許されるものではありません。 「世の中に悪が栄えたためしはない」ので神奈川県警交通機動隊の鉄槌がくだされるのですが、今は先に進みます。 |
(1987年 富士見高原「はちまき道路」) |
(1987年 富士見高原「はちまき道路」) |
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雪が降りはじめたので、相模湖でタイヤチェーンを装着し、国道20号線で小淵沢をめざしました。 早朝で交通量は少なく渋滞はまったくありません。 そのかわり思ったより早く道路は白一色になってしまいました。 小淵沢から八ヶ岳高原ラインに入り、富士見高原と原村をつなぐ通称「はちまき道路」へMGBを進めました。 どれぐらいの積雪なのか見当もつきません。 また気温も低く、車外に出た長男と次男が、動きをとめてしまうほどでした。 降りしきる雪の中を走行する際は、はりつく雪が熱で溶けるようヘッドライトや補助灯は常に点灯させること、ウインカーとブレーキランプのレンズは頻繁に雪を払い、他の車から視認できるようにすることなどを学んだドライブでした。 懸念したトラブルもなく無事に車山に到着。 雪遊びを楽しみました。 |
消灯しているとレンズが雪だらけになり いざという時ヘッドライトがつかえません (1987年 富士見高原) |
(1987年 車山) |
常に雪をはらい対向車や後続車からの 視認性を保つ必要があります (1987年 富士見高原) |
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| 適切な装備と慎重な運転が必要とされますが、スノードライブにも適応することがわかりましたので、雪が降ってもタイヤチェーンを装着したMGBで外出しています。 |
横浜市内は大渋滞 (2002年2月 改装中の横浜赤レンガ倉庫前) |
思いもよらない積雪に見舞われました (2004年 横浜 三ツ沢) |
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19)使い続けるということ 1980〜2005 25年間使い続けているMGBの装備品があります。 ヘッドライトです。 フランスCIBIE社の製品で1975年に入手した日産サニー(PB210)から使っていますので実際の使用期間は30年になります。 「シビエのダブル反射」と呼ばれていたもので、ハイ/ロー用に独立した反射鏡とハロゲンバルブ(H1)が特徴です。 独立したリレーと配線とスイッチで全灯点灯(全4バルブ)が可能で、HIDが存在しなかった時代、夜間のラリーやドライブで頼りになる装備品でした。 |
(1977年 相模川) |
(1980年 奥相模湖) |
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| 丸型2灯式や4灯式ヘッドライトは、メーカーブランドや車種の区別なく、互換性がありました。 規格が統一されていたからです。 でも規格品はデザイン上の制約となるので、自動車メーカーは丸型にかえて、角型2灯式や4灯式のヘッドライトを採用するようになります。 ヘッドライトで個性を主張する傾向は強まり、やがて「異形ライト」と呼ばれるまでになります。 現在では、専用デザインのヘッドライトが圧倒的に多数派を占め、標準規格品の丸型2灯式ヘッドライトを装備している車は、少数派です。 |
(2005年 横浜赤レンガ倉庫) |
(2005年 自宅) |
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まだまだ使えそうなMGB。 でもMGBを乗り換えて「シビエのダブル反射」を活用するならば「ケータハムスーパーセブンしかない。」と言ったら、家内にひどく叱られました。
20)乗車定員違反 神奈川県交通機動隊 1988 1983年11月に長男が、そして1985年4月に次男が生まれました。 チャイルドシートの概念や必要性がまだ知られていない時代でした。 MGBのシートの後部には折りたたんだ幌を格納するスペースがあり、幼児ならば3名ほど座れます。 カーペットが装着されていますが、手製のクッションを追加して、このスペースを長男と次男の専用シートにしました。 幌をたたんでオープンにしても、幼児2名分のスペースは確保されます。 物理的に座れるシートですが、日本の交通法規上は許されることのない「なんちゃってシート」が完成しました。 こうして私たち4人家族と1台のMGBの、許されざる生活がはじまりました。 食材、日用品は週末に翌週分を入手するのが私たちの習慣で、毎週末家族4人で買い物やピクニックにMGBで出かけていました。 買い物は横浜駅、新横浜駅、東神奈川駅周辺が主で、これに洪福寺商店街や大口商店街、伊勢崎町商店街がオプションで加わります。 春や秋の週末は買い物の後で根岸にある森林公園でピクニック、夏は関内の大通り公園の噴水で水遊び、これが当時の行動パターンでした。 |
キャリアはスキー用ですが いろいろな使い方ができます (1987年 自宅) |
キャリアやキャリア上のクーラーボックスは今も現役です (1987年 野辺山高原 レストラン五光牧場) |
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| 神奈川県外に遠出する際は、幌をたたんでシートの後部に格納し、ハードトップを装着していました。 こうすると長男と次男専用シートの居住性は向上するのです。 車山スキー場への冬季ドライブがこのパターンで、夏の軽井沢や志賀高原、秋の日光、那須高原へのツーリングもハードトップを装着していました。 ハードトップの素材はFRPですので断熱効果は抜群。 クーラーの冷房効率はブラックのフードとは段違いで夏季は快適でした。 ツーリング先でハードトップを外せば、オープンでドライブすることが可能です。 天候が変わった場合は、シート後部に格納した折りたたみ式の幌の出番です。 |
ハードトップとスキーキャリア (1987年2月 富士見高原「はちまき道路」) |
スキーキャリアはラゲッジキャリアに (1987年5月 中央高速 双葉SA) |
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とはいえ、MGBに4名で乗車するというこの行為。 乗車定員違反は、火を見るより明らかであり、弁解の余地はまったくありません。 1988年秋、三ツ沢公園のちかくで神奈川県警交通機動隊の白バイに乗車定員違反の現行犯で捕まるのです。 赤信号で停車中に白バイが横にとまり「こんにちは。 めずらしい車ですね。」と声をかけられたので「天気のよい日にオープンにしてドライブすると、とても気持ちがいいですよ。 でも爽快感は、オートバイにはかないませんね。」と脳天気な話をしていました。 そして、信号が変わる直前に「おやっ、この車。 何人乗リ?」と質問されました。 「ふっ ふたりのりです。」と私。 「はい。 それでは信号が変わったら左端に車をよせて停車しなさい。」 こうして「なんちゃってシート」の許されざる生活は終わり、天罰を受けた私たちは犯した罪を悔いあらため、更生の道を歩みはじめたのです。 |
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21)ユーノスロードスター 1989 マツダが、2人乗りオープンカーを発売すると発表した時の、驚きとうれしさは、今でも忘れません。 |
1989年9月に発売された2人乗りオープンカー 世界の主要自動車メーカーがこれに追従しました (2007年7月) |
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| 1989年9月に発売されたユーノスロードスターは、まさに典型的なライトウエイトスポーツ。 それほど高くはない動力性能と充分な制動性能。 ステアリングをきった状態で固定し加速していくと限界点を超えた時に後輪が徐々に外側にスライドしラインがふくらみはじめますが、アクセルオフでうまくおさまるというFRの素直なハンドリング。 スポーツドライブの基礎を体得するには最適の車だと思います。 |
高いレベルで見事にバランス オープンカーの方向性のひとつを世に問いました (2007年7月) |
5速マニュアルトランスミッション LSDが標準装備の後輪駆動で重量は1トン以下です (2007年7月) |
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また、オープンツーリングの開放感を楽しむことができる1台でもあります。 サンルーフ付きのセダン、Tバールーフ、タルガトップ、様々なタイプの車を運転したことがありますが爽快感はフルオ−プンが1番です。 私のドライビングポジションと破綻をきたさないウインドシールドの配置も魅力のひとつです。 ウインドシールドの傾斜がきついクローズドボディにデザインが拘束されたコンバーティブルの場合、私のドライビングポジションでは、額とウインドシールド上端が近くなりすぎ心理面で無視できない圧迫感を感じるのが常でした。 オープンカーとして設計されたユーノスロードスターには充分なスペースが確保されておりストレスなくオープンツーリングを楽しめます。 さらにメーカーで設定されたエアコンの存在も無視できません。 日本の製造技術と品質がオープンカーに結実した本当に魅力のある新型車でした。 |
仮にこの距離が近くても衝突事故さえなければ どうということはないのですが私は不安です (200年7月) |
ただし高さは耳のあたりまでしかありません 帽子とサングラスはオープン走行の必需品 (2007年7月) |
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日産フェアレディZ(S30)以来世界の趨勢はクーペタイプのGTであり、2人乗りオープンカーは過去のものでしかありませんでした。 安全性、快適性、市場規模、性能、投資に見合う利益などなど、1600〜2000ccの2人乗りオープンカーを開発しない理由はたくさんあります。 だからユーノスロードスターを開発し発売したマツダはすばらしいメーカーだと私は思います。 設計開発部門の熱意が、あるいは製造部門のプロ根性や経営陣のリーダーシップがそれを可能にしたのだと思います。 きっとみんなが「オープンカー好き」だったのでしょう。 ユーノスロードスターという新モデルによって世界の自動車メーカーが受けたショックは驚天動地と言ってよいのではないかと私は信じます。 1990年代に主要各社がマツダに追従したからです。 ホンダ、トヨタ、ベンツ、BMW、ポルシェ、フィアット、ローバー。 駆動方式や排気量の違いはありますがいずれも新モデルとして2人乗りオープンカーを発売したのです。 |
エアコンと強力なブロアーファンで空調性能も充分 シートのホールドも満足できるレベルです (2007年7月) |
クーラー作動中に渋滞するとオーバーヒート寸前 ユーノスの空調性能がうらやましい (2007年7月) |
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| 1969年にダットサン240Z(S30)を北米市場に投入しコンパクトなクーペタイプGTを世界の潮流にしたのが日産自動車。 1989年にユーノスロードスターを発売し全世界に2人乗りオープンカーの魅力を再認識させたのはマツダ。 私はマツダとユーノスロードスターに拍手喝采し、ユーノスロードスターのオーナーにとても強い仲間意識をもったのです。 |