|
(1998年10月〜2004年12月) |
|
27)日本へ 1998 1998年の10月に日本に帰任しました。 2台のMGBは40フィートコンテナで日本に向けて送り出しました。 メキシコシティから鉄道でロングビーチへ、ロングビーチからコンテナ船で東京港へというルートです。 1999年1月に大井埠頭に到着したコンテナは本牧A突堤にあるA08ヤードに内陸輸送。 自宅のある横浜で輸入通関を行なうことにしたためです。 |
搭をチェスの駒に見立て「クイーン」と船乗りはよびました 神奈川県庁舎が「キング」 横浜開港記念館は「ジャック」 手前は市営バス「あかいくつ」号です (2005年4月) |
このあと写真をとるためにA08ヤードにいきましたが 1998年とは異なり立ち入り禁止でした 検問所の話ではテロ対策とのことでした (2005年4月) |
![]() |
![]() |
|
2台分の仮ナンバーを取得し、三弟と末弟、私の3人で山下埠頭の税関出張所で輸入申告を行ないました。 別送品申告書とメキシコからの船積み書類、パスポート、日本から輸出した際の船積み書類や登録抹消書類を提示する必要があります。 輸入通関後A08ヤードでMGBを引き取りました。 久しぶりの日本に戸惑ったのか1974年式MGBのエンジンが始動せず手間取りましたが、結局2台とも自走して無事に自宅に戻りました。 MGBを再登録したのは1999年6月です。 キャブレター調整、エンジンオイルと冷却水の交換、ブレーキパッドの交換やリアドラムブレーキ調整など、週末に少しづつ手入れをして日本のナンバープレートをつけるまで4ヶ月を要しました。 こうして2台のMGBは再び日本の道路を走るようになったのです。 28)日産自動車(株)とお別れ 2000 経営再建を目的に、私の勤務先日産自動車(株)は、ルノーの資本参加を受けることになりました。 そして1999年3月に退職者の募集があり、私はそれに応募しました。 旧経営陣により発表されたこの最後の早期退職者の募集の後、1999年秋に、日産自動車(株)の経営はルノー派遣の経営陣に、引き継がれました。 1999年12月に仮採用ながら、私は新しい職を見つけ、試用期間が満了した2000年12月に、日産自動車(株)を退職しました。 1999年春「退職募集に応募する。」と言ったとき父や母、家内から、私は同じ質問を受けました。 「お前が退職し職を探さねばいけないほど、会社の状況は悪いのか? なぜお前は、会社をやめるのか。」と。 50歳に手がとどきそうな私にとって、新しい職を得る保証は、もちろんありません。 中高年層の希望退職者を募集しなければならないほど、経営陣は追い込まれていたのです。 家族の思いは「なぜお前が・・・」という言葉に凝縮し、胸をしめつけました。 私は、こたえました。 「座間工場も閉鎖したし、村山工場も閉鎖する予定。 僕たちが去らなければ、会社が倒産するかもしれない。 倒産したら若い人たちも職を失う。 そうなったら私は部下に、申し訳ないと思う。 戦争に負けるとわかったとき、負傷した若い2等兵を氷川丸で日本に帰したのと同じだよ。 日産の将来を、若い世代に託すのさ。 託された若い世代は、苦労するかもしれない。 また託した僕たちも、苦労することになる。 でも僕たちは、まだ恵まれている。 フィリピンに残った部隊は全滅したけど、僕は命まで取られるわけではない。 生きてさえいれば、なんとかなるよ。 職がみつかる保証は、ないけれど・・・。」 父が流す涙を、私はこのとき初めて見ました。 |
(2003年3月) |
(2003年3月) |
(2003年3月) |
![]() |
![]() |
![]() |
|
教職の資格があるので、4年間大学で鍛えなおせばなんとかなるかも知れないと思い、資金繰りを計算すると最初の2年の学費と家族4人の生活費は大丈夫。 「残りの2年間、僕が無収入でも面倒みてくれるか?」と家内に尋ねると「やだ。」 トホホホホ。 大学の4年間にMGBを乗りまわす夢は、こうしてまぼろしに。 1975年から1999年までの社会経験を生かしつつ勉学に励み、MGBとのアカデミックな生活を手に入れようと思ったのに、残念至極。 ほんとうに大学生になってしまうのかという家内の心配は、杞憂におわりました。 9ヶ月後の1999年12月、私は仮採用ながら新しい職についたのです。 29)MGB休眠 2001 1999年6月にMGBを再登録し、週末の買い物やドライブに使うという生活に戻りましたが、同時に2台を登録したのは、失敗でした。 2年後の2001年6月、当然のことながら、2台とも継続車検の時期をむかえます。 |
(2001年 小布施) |
(2001年 旧軽井沢) |
![]() |
![]() |
| 火を見るより明らかなこの状況は、1999年に予測できたはずなのに「どーして、そーしなかったの?」という家内の指摘には、「そこまで予測できる知能と洞察力があれば、MGBを2台も保有しなかったのさ。」と冷静に答え、1974年型のMGBの登録を抹消し、1年間休眠させることにしたのです。 毎年1台の継続車検とするためです。 |
20年の時の流れを感じました (2002年 野辺山高原) |
周辺には樹木もありませんでした |
![]() |
![]() |
|
1974年式のMGBについているワイヤーホイールと、1980年式のスチールホイールを交換しました。 休眠させる1974年式はスチールホイール装着車、継続車検を取得する1980年式はセンターロックタイプのワイヤーホイール装着車になりました。
30)北海道ツーリング 2002 2002年8月に家内と1980年式のMGBで北海道ツーリングに出かけました。 4月にストロンバーグキャブレターが不調になったので休眠中の1974年式からSUツインキャブを移植しました。 6月にはエンジンをオーバーホール。 そして8月。 夏季休暇の旅行と慣らし運転を兼ねた北海道ツーリングを計画したのです。 |
(2002年8月) |
![]() |
| 往路は青森−函館、復路は室蘭−八戸のフェリーを使い、それ以外の全行程3554Kmを自走する5泊6日(内2泊はフェリー内)のツーリングでした。 札幌でフューエルポンプが故障し持参した予備のポンプに交換したのですが、これも不調。 身動きがとれなくなってJAFにSOS。 |
(2002年8月) |
(2002年8月) |
![]() |
![]() |
|
深夜にもかかわらずホテルを、また翌朝は修理工場を紹介していただきました。 見ず知らずの私たちを親身になって世話をしていただき、人の親切に感激した本当に心に残るツーリングでした。 不調だったルーカスのフューエルポンプは、修理工場おすすめの日本製ミツバのポンプに交換しました。 日本製の信頼性は格段に高いとのことでした。 宿泊地は、屈斜路湖と富良野と札幌。 訪問した都市は、函館、北見、美幌、弟子屈、阿寒、富良野、美瑛、札幌、室蘭。 交通量は少なく、気温は夏とは思えないほど涼しく、オープンカーでの北海道ツーリングは、とても快適でした。 復路は八戸、喜多方、会津若松、軽井沢を経由して横浜に戻りました。 |
(2002年8月) |
(2002年8月) |
(2002年8月) |
![]() |
![]() |
![]() |
(2002年8月) |
道道664号線 (2002年8月) |
(2002年8月) |
![]() |
![]() |
![]() |
|
31)復活 MGB 2002 2人とも生まれて初めての北海道ツーリングは、とても印象的でした。 下の画像は1970年代にスカイラインのコマーシャルで脚光を浴びた、ポプラの木です。 この木により美瑛の地名が、日本中に知れわたるきっかけになったと記憶しています。 雑誌やTVのコマーシャルでこの木をリアルタイムで見ていた私たちにとって、若かりし頃を振り返るモニュメントです。 |
(2002年8月) |
![]() |
| 1970年代を標榜するのであれば、この木の横には1980年式のMGBではなく、1974年式を配するべきでしょう。 しかし1974年式のMGBは、車検の更新を1台/1年にするべく登録を抹消。 しかもエキゾーストパイプは外したまま、装着すべきキャブレターもない状態です。 将来1974年式のMGBで、北海道を再訪してみたい。 可能であれば、長男や次男と家族4人で、2台のMGBに乗って北海道ツーリングを楽しみたいと、夢のようなことを考えていました。 |
次に訪れるときは家族4人で2台のMGBが目標です (2005年8月) |
![]() |
|
北海道ツーリングから横浜に戻るとさっそく1974年型のMGBの再登録の準備をはじめました。 作業を開始したのは2002年8月末。 2ヵ月後には、再登録の車両検査に合格する必要最低限の状態まで作業が進みました。 そこでひとまず登録を済ませ、買い物やドライブに使いながらメンテナンスを続けることにしました。 作業を開始する時点で、1974年式MGBは「お不動さま」と呼ばれていました。 SUツインキャブと吸排気系を1980年式MGBに移植したためです。 キャブや吸排気マニフォールド、マフラーを失ったMGBは、部品取り車になると噂されていましたが、自動車整備士の資格を持つ末弟という強力な援軍を得て、再登録にむけた作業を開始しました。 |
(2002年8月) |
(2002年8月) |
![]() |
![]() |
| ストロンバーグシングル、SUツイン、SUシングルの選択肢から選んだのはSUシングル。 SUシングルに興味があったのと、ストロンバーグキャブ用吸排気マニフォールドや触媒など1980年式についていた部品がそのまま活用できるからです。 末弟の勤務する整備工場の休業日に場所と工具を拝借し、最初にインテイクとエキゾーストマニフォールドを取り付けます。 次にSUキャブレターを装着し、アクセルワイヤー、チョークワイヤー、フューエルパイプ、ブローバイパイプを接続、最後にエキゾーストパイプとマフラーを取り付けるとあとは点火時期とアイドリング調整を残すだけです。 |
かわりにシングルのSUキャブレターを選びました (2002年8月) |
触媒もエキゾーストパイプも流用OKです (2002年10月) |
![]() |
![]() |
|
長期間にわたり放置していたエンジンを再始動させるのは、不安と期待が入り交じり、ドキドキワクワクする瞬間ですね。 ひどくばらつきながらもエンジンが始動した時は、末弟と握手、拍手喝采、万歳三唱。 エンジン調整もそこそこに、初日の作業を切り上げ、近くの中華料理店に席を移し、ビールと餃子と野菜炒めほか食べ放題・飲み放題ということにして祝杯を重ね、大いに盛り上がったのです。 後日ルーカスのフューエルポンプを日本製ミツバに交換、ディスクブレーキパッド、ドラムブレーキシューを交換。 オルタネーターやホーンほか電装品とライトとランプ類、ヒューズ、リレー、配線を点検。 最後にフロントアクスルとプロペラシャフトユニバーサルジョイントのグリースアップを済ませ、2002年10月28日に車検と再登録が完了しました。 2001年6月から数えて16ヶ月ぶりに、2台そろって日本の公道を走行できるようになったのです。 4人家族のうち運転免許をもっているのは、私だけですが。 そしてこのとき2002年10月。 フェンダーにイギリス空軍の国籍マークと、家族のイニシャルを示すステッカーを貼りました。 1974年式MGBはAH◎N、1980年式はKH◎Kです。 |
ステッカーはAH◎N (2002年10月) |
![]() |
|
32)The MG Dayin KARUIZAWA 2002 日頃からお世話になっている英国車部品専門店のBRGさんに教えていただき、MGカークラブジャパンセンターが主催する2002年10月24日のイベントに参加しました。 軽井沢のホテル鹿島の森で開催され、各地からMGとそのオーナーが集い親交をふかめる、日本でもっとも伝統のあるカークラブのイベントです。 |
K3マグネット (2002年10月) |
![]() |
| いずれのMGも日頃からオーナーが愛情を込めてメンテナンスしているのでしょう。 第2次世界大戦前のモデルから、あたらしくはRV8やMGFまで、霧につつまれてモデル別に会場に並んだMGは、英国車特有の落ち着いた雰囲気を感じさせてくれます。 また、苦労話やMGにまつわるエピソード、あるいは部品の入手方法や整備の方法などオーナーと交わす会話も楽しく、すばらしい秋の1日を過ごすことができました。 |
(2002年10月) |
(2002年10月) |
(2002年10月) |
![]() |
![]() |
![]() |
| 自動車好きの人たちが楽しいと感じる瞬間は、万国共通。 MG以外でもオーナークラブが存在しますし、ブランドにとらわれない4WDなど、自動車のカテゴリーに準じたカークラブもあります。 国籍、人種、年齢、職業の差別なく、世界中で同好の士がイベントに集い、交流しています。 なかでもMGカークラブの活動規模と愛好者の数は、世界最大です。 |
(2002年10月) |
(2002年10月) |
(2002年10月) |
![]() |
![]() |
![]() |
| MGを囲み談笑している人たちを見て、私は自問しました。「なぜだろう?」と。 「製造メーカーの盛衰にかかわらず、MGというブランドを支持する人たちが、世界中に存在する。 またこれほどまでに、支持される自動車を製造したメーカーがイギリスに実在する。 なぜだ?」 |
(2002年10月) |
(2002年10月) |
![]() |
![]() |
|
横にいた家内が言いました。 「子供のころから自動車が好きで、日産自動車に勤務したあなたが、MGBという他社の自動車に20年以上も乗っている。 これほどはっきりした答えは、ないでしょう。」 とぼけたことばかりしているけれど、家内はひょっとして、頭脳明晰なのではないかと思った瞬間でした。
33)単身赴任 台湾 2003 台湾勤務の辞令を受け、2003年3月に台北に赴任することになりました。 家族と相談の結果、今度の海外勤務は単身で赴任することになりました。 残念ながら家族4人と2台のMGBとの生活は、しばらくの間お休みです。 2003年の夏は1974年式のMGBで北海道ツーリングに行こうと思っていたのに・・・。 34)クラシックカーイベント 2004 ラフェスタミッレミリアをはじめて知ったのは2002年の8月でした。 北海道ツーリングの帰りに立ち寄った喜多方の道の駅「蔵の湯」に、2001年のスチール写真が掲示されていました。 公道を使う自動車イベントが日本でも市民権を得たことに感銘を受け、2人でスチール写真を1枚1枚見てまわりました。 「あっ。 見て、見て。 マチャアキさんが出てる。」と家内は叫びました。 |
(1926年式) (2004年10月) |
(1937年式) (2004年10月) |
チシタリア202スパイダー(29号車) アルファロメオ(30号車) (2004年10月) |
![]() |
![]() |
![]() |
|
そして2004年10月に休暇で日本に戻った際、ラフェスタミッレミリア2004のゴールが横浜の元町と知り、見物に出かけました。 「堺正章さんに会えるかも知れない。」とワクワクしながら家内も同行。 「僕たち何の面識もないじゃあないか。」と私。 「遠くからでも見えればいいのっ。」と家内。 参加者の話では天候が回復したのは最終日の10月6日になってからで、10月3日のスタートから3日間は、雨天走行だったそうです。 ワイパーと屋根付きのクーペやセダンも参加していますが、大半はオープンカーで、なかには幌を装着していない車両やレーシングスクリーンだけの車両もあります。 とてもハードなドライビングコンディションだったはずですが、ゴールしたドライバーとナビゲーターの表情はいずれも明るく、本当に楽しそうでした。 将来チャンスがあればこのようなイベントに参加してみたいと話しながら、自宅に戻ったのです。 |
(2004年10月) |
ドライバーは堺正章さん (2004年10月) |
(2004年10月) |
![]() |
![]() |
![]() |
|
横浜元町のゴールを見学してから数日後、クラシックカーイベントに参加する機会があればいいなと思いながら、私は勤務地の台湾に戻りました。 そしてそのチャンスは思ったよりはやく訪れます。 日本へ帰任するようにとの内示を受けとったのです。
35)再び日本へ 2004 日本帰任の辞令を受け2004年の年末に、家族の待つ日本に戻りました。 12月21日のフライトで台湾を離れ、夕方にはクリスマスと歳の瀬を迎えようとするあわただしい雰囲気の横浜駅に、おりたちました。 温暖な台湾と異なる日本の寒さには閉口しましたが、家族全員でクリスマスと正月を迎えるべく、帰宅ラッシュの雑踏を自宅へと急いだのでした。 あけて12月22日は出社しましたが、23日は天皇誕生日で休日。 さっそくMGBを点検し、どこに手を入れるかリストアップをはじめました。 年末年始休暇や週末の自由時間で2台のMGBをメンテナンスする予定をたてはじめたのです。 来るべき2005年の目標は、クラシックカーイベントへの参加です。 |